沙斤山城

沙斤山城沙斤山城

所在地

慶南咸陽郡水東面役所の裏山

指定番号

史跡地第152号

時代区分

朝鮮時代

沙斤山城の紹介

現在の水東は、元々沙斤駅の場所にあったが、山城は水東面所在地の裏手の蓮花山にある。ここは咸陽郡の関門であり、西部慶南から湖南地方に行く要衝として、居昌、山清の間の国道沿いに位置している。ここから咸陽邑に至る道が分かれており、国道の前には小川が流れている。

水東前を南へ流れるこの河川は、晋州の南江へ流れる鏡湖江の支流である。沙斤山城は、咸陽の外城であると同時に、南北貫通路の要衝地である。三国時代の咸陽は、位置からして新羅、百済の接境であったため両国の紛争地域であったと推定される。「東国輿地勝覧」咸陽郡城廓条には、石垣の周囲が2,796尺、その中には3つの池があり、城内には烽燧台があったと伝えられており、今でもその形態がはっきりと残っている。

高麗末庚申年(1380年)に、監務∙張君哲(チャン・グンチョル)が倭軍に城を奪われた後、放置されていたが、朝鮮成宗の時代に再修築されたと見える。 「咸陽邑誌」によると、この城を破った倭軍が一気に咸陽を攻略して湖南に攻め込み、南原・雲峰で李成桂に殲滅されたという。したがってこの地域は、新羅・百済の国境紛争と倭冦の侵略に苦しんだ所であっただけに、この城の重要度が推し量られる。

復元のために城を実測調査した結果、周囲の総長は1,218mで、石垣の残存部は平たい自然石、または加工石が整然と組積されている。その築造状態は非常に堅固で、高さは4m程度の本来の城の高さをそのまま維持している部分が多く、本格的な史蹟公園化が期待される所である。