黄石山城

黄石山城黄石山城

所在地

慶南咸陽郡西下面于田村前

指定番号

史跡地第322号

時代区分

新羅.高麗時代

黄石山城の紹介

慶南咸陽郡安義面と西下面の境界をなす海抜1,190mの黄石山の頂上から左右に伸びた尾根に沿って、1つの渓谷を囲んで形成された包谷式山城である。

城の位置が嶺湖南の関門であり、全羅道の長水、鎮安へ通じる交通の要衝地に位置している点と構造からみて、新羅が伽揶を滅亡させて百済と対決する時期に築造されたと推測される城であり、城郭の総長は2.75kmである。

「東国輿地勝覧」安陰県(今の安義面)城廓条によると、周囲が29,240尺で、城内には小川と軍倉があったと伝えられている。現在は城内に渓谷があるため、水が絶えることがない。

朝鮮太宗10年(1410年)に慶尚道の6城を修築する際に、火旺山城、烏恵山城、金烏山城、廉山城、夫山城とともに修築した記録があり、城内の広さは34結にも上ったという。丁酉再乱の際、宣祖30年(1597年)8月に体察使の李元翼(イ・ウォンイク)が修築と守成の命を受けて安陰、居昌、咸陽の3邑の住民を動員して城を補修したが、激戦で陥落した所でもある。

やはり丁酉再乱の際、宣祖30年(1597年)に前咸陽郡守∙趙宗道や安陰県∙監郭䞭などが倭軍の攻撃を防御しようとした激戦地として有名で、その年の8月に陥落して約500人が殉国した所である。

城は石で積まれた部分と土で積まれた部分が混じっているが、石垣部分は自然岩盤が露出した山頂部分であり、土石の混じった部分は一般の尾根の部分である。城門は東、西、南、北東に木で門楼を揃えた小さなものが配置され、城中の東に流れる渓谷周辺には多様な建物が配置されたものと思われる。

1棟の建物跡が見えるが、規模や位置からみて城内の中心建物であると推測される。築造手法は山托と夾築を兼ねているが、基壇部は山托、または内托手法を使い、上部は夾築したものが大部分である。この山城は1991年の地表調査をはじめ本格的な復元事業が進められており、黄石山を訪れる登山客がよく足を運ぶ所である。